私が森に子どもを入れたわけ

ようちえん

私が森に子どもを入れたわけ
娘が通っている幼稚園に、母の日参観や運動会、演奏会、お遊戯会はない。
それらをする幼稚園を否定するつもりもないし、見て華やかで、きっと娘が参加していたら、感動したり、興奮したりしていると思う。
そこでの楽しさがあっただろうことも感じる。
子どもはどんな場所でも育つことができる。
問題は私だ。
母となった私は、嫌なものは嫌なのだ。
イヤイヤ期の次女に負けずおとらず、私も嫌を発揮している。

少し前まで、”自分の好き”がわからなかった私。
お店に行けば、子どもが食べられるものを選び。
食べたいと一生懸命一つに決めて選んだおやつはほぼとられ。(そもそもなぜ1つに絞っているのか?2つ買えばいいではないかと何度も思うが、選ぶ側からどちらにしよう?とやっている)

森じゃないと子育てできない。とまで思っていた私は、いざ入園させてみるとそうでもない気がしている。
大人と関わることがそんなに得意ではなくて、構えてしまう。
全く初めて会う、手芸屋さんのおばさんとの方が楽しく会話している自分を客観視すると何がしたかったのか?とも思える。
助け合いたい、自分もサッと大変な時支えになりたいって思っていたけど、したいとそうなりたいと思えば思うほどに、そんな自分には到底近づけない気がしている。

悩みに悩んで入園させたのに、もうやめた方がいいかとも思ってみたり…
色々な気持ちを感じ切っている。

こんな母がいいと思ってきた母像は幻想で、手抜き、だらしない、わがままな母になればなるほど、子どもたちは笑ってフォローしてくれる。
なんて心強くて、愛しかないんだろう。

母が弱音を見せれば、どっちが大人か分からないほどに優しく抱きしめてくれる。
子どもに甘え無邪気に泣く私は、本当に何がしたいのか?

日々娘たちの愛を感じている。
次女が産まれてから、叱ったことなかった長女に常に怒鳴ったり、罵声を浴びせている気がして、うんざりしていた。

娘と保育に入る日。
全く娘を叱ることなく、泣き崩れて、森を歩きたくないという娘を抱き抱えて歩く。
重いけど、幸せの重さ。
あ〜私にもちゃんとこの重みを、受け止めることができるんだと少し自信になる。
それと同時に、娘と過ごす時間が、怒っているばかりの私ではなく、苦痛な時間でもなく、ただただ幸せな時間へと変わる⏳

日々の生活ではなかなか気がつけない。
淡々と流れでいくこの時間を、思い切り噛みしめて。
いつか娘に話したい。
娘が母になって、泣きじゃくる子どもに困っていても、大丈夫、あなたなら大丈夫と側で言える母になれる気がする。

森に入ると、大人の言葉は本当に必要のない気がする時がある。
小さな子どもが泣いたり、機嫌を損ねた時、ついつい大人はリュックを背負ったまま泣く子にとりあえず下ろした方が楽だよと降ろさせようとしたり、森にいるから早く帽子被りなさいよと急かすことをする。
でもじっと待って、観察したら、自分の荷物を身につけることで安心していて、自分で自分が落ち着くタイミングを待っていたり、自分がやりたくなるタイミングにやろうとする。
早くして、汚い、ダメを連呼することで、見えなくなる子どもの姿がたくさんあることを心の隅に留めておきたい。

と言いつつも日常は、登園前はどんなに早くしてのオンパレードで、食事中こぼす子どもに、もう!と怒り、喧嘩する姉妹の鳴き声を聞いてはダメって言ってるでしょと。
日常はそんなに甘くないのだけど、このギャップがまた面白いと思える今日なのでした。

保育当番に入ることで、我が子だけではない子の可愛さがしみる。
私じゃないと手を繋がない子ども。
子どもと過ごすわずかな時間は視点を変えれば、幸せの種でしかないことを実感する。

やっぱりここでよかったと言うしかない。
今日この頃である。笑

年少母 かすみん

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